【小池町】
小池町は松本城下の枝町十町の一つで中町に属していた。慶長十八年(一六一三年)、城主小笠原秀政が飯田より入部の際に南半分を奉公人衆の屋敷にした。その中に小池甚之丞という軍学兵法の達人がいたので、その名を取ったという説と、この辺りに小さな池があったことに由来するとの説がある。地図
小池町_2423【小池町】
(こいけまち)
















【口張町】
武家屋敷の最北端に位置する。
「信府統記」に「同心町北ノかうばり町東西七拾二間余家数南ヶ輪七軒北ヶ輪拾一軒」とある。
「松本市史」では紅梅町とあることから、当初紅梅の木があって起源となり、後に今の名に訛ったのではないかと述べられている。地図
口張町_2275【口張町】
(こうばりまち)
















【小柳町】
城内武家屋敷の一町名。大名町の東側、地蔵清水町と大柳町の南に位置した。二〇〇石から三〇〇石前後の俸禄の武士の屋敷があり、北の大柳町に対して小柳町と呼ばれた。「信府統記」には「小柳町、南北九拾間余、家数西ヶ輪四軒、東ヶ輪五軒」とある。地図
《現在は町名碑は撤去中。レストラン鯛萬の北角が既存位置》

【作左衛門小路】
東町から分岐する六つの小路の一つ。名主萩原作左衛門がこの小路を開通させたことに因み、この名がつけられた。地図
作左衛門小路IMG_2388【作左衛門小路】
(さくざえもんこうじ)
















【塩屋小路】
東町から分岐する六つの小路の一つで、恵光院につきあたる。町名は塩屋孫兵衛という豪商が居住していたことに由来する。
この小路にあった井戸は底が海底へ通じ、昔より塩を供給する老翁が出現したとの伝説がある。地図
塩谷小路_2381【塩屋小路】
(しおやこうじ)
















【地蔵清水】
この地は中世のころは市辻と呼ばれ、市が立ち賑わっていた。いつのころか清水の湧く辺りから石の地蔵尊が出土したので、地蔵清水と呼ばれるようになった。
地蔵尊は生安寺にまつられている。地図
地蔵清水_2376【地蔵清水】
(じぞうしみず)
















【下下町】
城外武家屋敷の一町名。足軽町の天白町、中ノ町、東ノ町の南端を東西に結ぶ下町に並行して、摂取院から東へ新しく足軽町が造られ、下下町とか表新町と呼ばれるようになった。「信府統記」には「東西八拾九間余、家数北ヶ輪拾二軒、南ヶ輪拾四軒」とある。江戸時代末期には下下町の呼び名が定着した。地図
下下町_2299【下下町】
(したしたまち)
(しもしものちょう)






































【下馬出町】
東門馬出し郭から東町へ抜ける通りで、北門馬出し郭からの通りが上馬出しと呼ばれたのに対して下馬出しと呼ばれた。地図
下馬出町_2367【下馬出町】
(しもうまだし)
















【下横田町】
歴代城主の発願により、古くより寺町としての様相を呈していたが、一七三〇年代、既に現町名で二丁八間二五一軒の人家を構え、職工人の町として栄えた。主に湧水を利用した紙漉足袋の製造など多く、維新後は県内初めて料芸街として官許され、伝統は現在に受け継がれている。地図
下横田町_2361【下横田町】
(しもよこたちょう)
















【生安寺小路】
町人町・本町から東へ入る小路名。かつて生安寺(現在は蟻ヶ崎に移転)を見通すことができる小路であったため、この名がついたといわれる。また、三月・五月には節供のひな人形を売る店が軒を連ねたので、ひな小路とも呼ばれた。地図
生安寺小路_2417【生安寺小路】
(しょうあんじこうじ)