【正行寺小路】
東町から、下横田町にある真宗正行寺の山門にいたる参道であった。正行寺は、松本城天守を築造した石川数正・康長父子の菩提寺である。地図
正行寺小路IMG_2363【正行寺小路】
(しょうぎょうじこうじ)
















【常法寺小路】
山伏の寺、常法寺がこの通りの東側下々町の角にあったことに由来する。明治になってからは小路入口の町屋の屋号をとって「あぶらた小路」とも呼ばれる風情ある小路。地図
常法寺小路_2309【常法寺小路】
(じょうほうじこうじ)
















【新小路】
中の橋と中町を結ぶ小路で、小池町とは城下町の特徴であるくいちがいとなっている。貞享年間の頃、中町孫四郎の願によって屋敷の内に小路を開け肴店をはじめたという。地図
新小路_2500【新小路】
(しんこうじ)
















【大名町】
水野氏時代までは大手南門通りと呼んでいた。女鳥羽川から北側の三の丸は、上級の武士が居住する地域であり、なかでもこの通りの両側は年寄や組頭など高禄の藩士の居住する所だったので、この名がつけられた。地図
大名町_2528【大名町】
(だいみょうちょう)
















【鷹匠町】
城外武家屋敷の一町名。総堀の外、松本城の西北に位置し、慶安年間(一六四八~五二)に町割りが行われた。「信府統記」には「鷹匠町東西百三間余、北ヶ輪八軒但シ南ノ端鍛冶細工所アリ」と、町の様子が述べられている。後の戸田氏時代に鷹匠餌差が置かれてこの町名がついたという。地図
鷹匠町_2333【鷹匠町】
(たかじょうまち)
















【田町】
城外武家屋敷の一町名。この辺りはかつて大門沢の左岸の低湿地で水田のあったところに、慶安年間(一六四八~五二)水野氏により武家屋敷が設けられたので、この町名がついたといわれる。幕末の家数は東側十六軒西側二十一軒で、百石前後の武士の住む町であった。地図
田町_2339【田町】
(たまち)
















【長称寺小路】
和泉町から分岐する二つの小路の一つ。和泉町より長称寺が見通せるのでこの名がつけられた。長称寺は親鸞上人ゆかりの寺で、山号を木曽義仲院といい、城下町の東に配置され、城砦的な性格を併せ持った寺であった。地図
長称寺小路_2348【長称寺小路】
(ちょうしょうじこうじ)
















【出居番町】
出居番とは口々番所や筏番所へ交代で詰番にでる役職のことで、水野氏の時代におかれた。この町は、それらの任務にあたる武士が居住していたところである。地図                   
出居番町_2370【出居番町】
(でいばんちょう)